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竹炭作り 更新日 : 2007/05/30

山の神のルーツ

「山の神」は他県にも有るのだろうか?。
インターネットで検索すると20100件程開設されている。
芋野「山の神」の御神体は男性のシンボルであるので、子孫繁栄を願う信仰儀式である。その為男性の小学生から中学生だけの行事である。
他の開設ページを見ると、冬期の山の神は山が荒れ狂う事のないよう女の神だとし、春期は山から下りて里を守る、この信仰例が多い。
しかし滋賀県某所には男の子供が自分達で神事を準備して飯も炊き神事の最後には「オンタイ」と「メンタイ」を合体させ儀式を修了するらしい。子孫繁栄で「山の神」神事をしている所はほとんど例がない。
では芋野の「山の神」の神事はいつごろから有ったのだろう。
御神体がある山近くに石上神社があり今なお住民の信仰が深い、この石上神社の境内に「山の神」の分身である石塚がある。
何故ここに分身があるのか、古老に聞く所では「山の神」の御神体がある場所は、芋野川を渡り茂みの中の為、お参りがしにくいので、分身を設けたらしい。この事から石上神社の創建から石塚があったとすれば神社の創建年代はいつだろう。
古老によると古代は石上神社と石上山安養寺は芋野川を挟み建っていたらしい。では安養寺はいつから有ったのか、石上山安養寺の由来記によると、当時は宮津市智現源寺の末派寺として正慶2年(西暦1333年)にあったとしているから、石上神社も同年には存在していた訳で今から671年前となる。その時に既に「山の神」の石塚も有ったのだろうか。
そもそも芋野はいつの時代から存在していたのだろうか?
承平年間(931〜937)に成立した我が国最初の本格的な分類体の百科事典である「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」(略して和名抄)に記載された竹野郡の郷には木津・網野・鳥取・芋野・間人・竹野の6郷があり古くは竹野郡竹野郷がその中心地であった事がうかがわせる。すれば1060年前には既に芋野が存在していた。
また京都府立丹後郷土資料館(宮津市)の展示品に、「丹後国竹野郡竹野郷芋野郷うねめ部古良与曽赤舂米五斗」と書かれた木簡が平城京跡遺跡の「造酒司」の井戸排水構から出土した。
平城京は西暦710年に藤原京から平城京へ移され長岡京へ移るまでの74年間続いた。
となれば芋野は1294年前には存在し、平城京に献米していた事になる。
それほどにも早くから都に関わりがある芋野であれば、ひとつの郷として確立され発展していたとされる。
しかし、1294年前から「山の神」の神事があったとする証拠は何処にも記載されてはいない。
まださかのぼって調査してみると、神社考と言う学問があり、神社にある祭神や由来は古代の物語を後世に残す貴重な足がかりとなる、但馬・丹波・丹後の北近畿地方で、物部氏ゆかりの神社として竹野郡内では石久久里神社「天香山命」竹野郡丹後町力石右ヤシキ695と石上神社 竹野郡弥栄町芋野長尾28-1の2つ神社があったとされている。
氏族が中心となった政権時代は天皇家の先祖とされる大和朝廷で、古墳時代の大和国周辺であったとされている。
当時大和朝廷時代は、葛城氏や物部氏の氏族が深く関わり、葛城氏は大和朝廷の長と結婚できる存在であり、物部氏は武門であったなど、ある程度分化されていたらしい。
物部氏の勢力が強かった時代は安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇(西暦534〜571)で蘇我氏は崇峻天皇時代に政権を握り仏教など大陸分化の移入に努め、物部氏を倒し皇室をしのぐ勢いをみせたが、大化元年(西暦645)に中大兄皇子らに滅ぼされた。
さて芋野「山の神」の話に戻そう、物部氏のゆかりの神社として「石上神社」が有ったとしている事から時代的には西暦534年から571年であろう、その時代から神社境内に「山の神の石塚」が有ったとすれば、1470年前から「山の神」神事祭が行われていたのだろうか。
しかし延長5年(西暦927)に撰進され、康保4年(西暦967)に施行された「延喜式」が後に「神名帳」と呼ばれる様になりこの中に日本全国すべての神社の3132座の神社名が記載されている。
丹後の国の式内社には加佐郡に11座、与謝郡に20座、丹波郡に9座、熊野郡に11座、竹野郡に14座と記載されている。しかし14座の中には芋野の石上神社は記載がない、とすると1077年前には無かった事になり、あってもその以後になる。
≪まとめ≫
芋野は1294年前から存在していたが、石上神社は1037年前には存在しなかった。しかし「山の神」の存在は671年前から存在していたと思われる。


 

photo早朝から区長さんの赤飯炊きから始まる。「山の神」の神事の赤飯が炊けるのは、区長さんは「光栄の至り」だと言われています。
赤飯が炊き上がったら、昔から引継がれた「お櫃」に移し代えられます。男のみの神事ですので、米を洗って炊き上がるまで、すべて男が作業します。

photo赤飯の準備が出来た所で、子供達を集合させ『山の神』のルーツ等を区長さんから説明があり、「今日1日怪我をしないように、山ノ神に参ってきてください、そして仲良く山遊びをしてきて下さい」と言葉があった。同時に区から『山の神』の運営助成金が、子供会世話役の人に手渡された。

photo区長さんの挨拶が終わったら、全員外に出て御幣の竹を子供達に手渡します。全部で13本の竹の先端に御幣が付いていて、内1本は長い物です。
御幣は子供会の世話役さんが手配しておきます。

photo長い竹の1本を持つのは、中学生の上級生が持ち、後の12本は下級生達が持ちます。赤飯の入った御櫃はわらで作った「ふご」に入れ上級生が肩で担います。
以前は子供が多かったので13本の竹はなかなか持たせてもらえなかったが、今は一人が2本持たないと人数が居りません。

photo中学生が先頭で小学生が後に続きます。
約1キロ近いほど徒歩です。「あーとーみな」と先頭の上級生(一番長い御幣竹を持った生徒)が叫ぶと下級生は復唱し、「からとーみな」と上級生が叫ぶと下級生が復唱する。皆で大声で叫びながら進む訳ですが、道中は絶対に裏を振り向いてはいけない仕来たりがある。後を見ると茶碗が割れて、赤飯が食べられなくなるといわれている。

photo当日の早朝に芋野川から1円玉位の小石を生徒分を拾います。
この石は色石・砕石でなく、古来から芋野川に有る角の取れた、丸い小石とされている。昔の人は「山の神」は石の神さんともいわれている、それは御神体が石で出来ているからなのか、よくわからない。また昔の家の周りには犬走があり、その昔は犬走は石で土留めされていた、その石を踏むとバチが当たると言われていた。もし踏むと上級生に芋野川の上流まで、手の清め直しに行かされた。

photo「山の神」の御神体近くの堰堤に着くと上級生は、先ほどの小石を赤飯に入れておにぎりにする。全部で生徒数の個数を作る。
(サランラップで包んでください)
御ひつの蓋に全部のおにぎりを並べる。


photoその石入りおにぎりと、一番長い御幣の付いた竹を「馬石さん」にお供えする。帰るまでお供えしたままにしておきます。通常は「馬石さん」と書くが「まいっさん」と呼ばれている。古老の話では、大名が乗った馬が疲れて動かなくなり石になったと伝えられているとの事。この「まいっさん」は芋野川にドカンと鎮座している。

photo「まいしさん」のお供えが終わると、いよいよ御神体に12本の御幣竹を持って芋野川をわたり竹を御神体の祠の裏に挿しにいきます。御神体には赤飯のお供えはしません。
12本は12ヶ月を意味するらしいく、1年間の無病息災と子孫繁栄祈願します。

photo御神体の裏に12本の御幣竹を立てて儀式は終了です。
12本の竹を納めて、山を降りる訳ですが、御神体に尻を向けてはバチが当たるとされ、全員裏向きで山を降りなければならない。写真の右下に御神体が写っていますが、男性のシンボルの形した石です。(あらたかな石です)

photo儀式が終了した後は、近くの山に皆集まり、家から持ってきたお茶、おかず、唐津の茶碗をだし、上級生に赤飯を入れてもらい昼食です。
その時に唐津の茶碗が割れていないか不安な時がありました。

photo下級生に赤飯が行きわたったら、世話役の人も家から持ってきたおかず等で赤飯を頂きます。
食べ終わったら山遊びをして、かえる時は「まいっさん」にお供えした石入りのおにぎりを上級生が各自1ヶづつ下級生に配る。又食べ切れなかった赤飯も、茶碗・おかず箱に詰め家に持ち帰り
食べるのだが、家で赤飯を食べられるのは男性のみとしている。

護身体に平成19年に祠を新設しました。
祠の設置中に土中から、もう一体の護身体を発見。
二体の御神体となった訳だが、古老に聞いても二体もあった事は誰も知らなかった。
その成果あってかどうか、平成19年度は多くの出産があった。
平成20年には、もう一体の祠も作らなければならない。
するともっと子供が増えるかも?

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